【パスタの歴史】中世以降のパスタ(5/全9回)
中世以降のパスタ
中世は、歴史的には灰色もしくは暗黒の時代といわれ、食の分野もその例外ではなかった。飢饉や疫病のせいで人口が減り、農業もふるわなかったからだ。暗黒の中世から脱却した13世紀頃からイタリア半島で食に関する書物が出始めていく。13世紀から14世紀にかけてパスタ史に残る言葉が、イタリアのさまざまな文書に現れている。たとえば、
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マッカローニmaccaroni(1279年) ジェノヴァの公証人ウゴリーノ・スカルパが軍人ポンツィオ・バストーネの遺産としてbarixella una plena de maccarones(物入れ一つ分のマカロネス)と記述。
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ヴェルミチェッリvermicelli(1284年) ピサの文書に、パン屋を採用するにあたりin faciendis et vendendis vermicellis(ヴェルミチェッリの製造及び販売)と職種を記述。
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ラザーニェlasagne(1290) ジェノヴァの公証人ジャコモ・ネピテッロがマリア・ボルゴーニョという人物の家を特定して、faciebat lasagnas(ラザーニャ製造)と家業を記述。
ヴェルミチェッリは、シチリアで発達したトゥリアもしくはイトゥリアと同じものと思われるが、シチリアですでに確立した名称が使われず、ヴェルミチェッリと表記されているのは、トゥリア(イトゥリア)が異文化のものと認識され、公式文書にふさわしくないと考えられたからかもしれない。一方、マッカローニは、その語源は不明であるが、おそらくマッカーレmaccareという言葉に関係している。マッカーレは練り生地を作るという意味の古い動詞だが、あるいは、アラブ語のmu-karana(行列にする作業を意味する)、ギリシャ語のmakaria(至福の人=霊の食べもの)から来たとも考えられている。
ラザーニャは、古代ギリシャ時代以来の練り生地から到達した一つの形であるとしたら、ヴェルミチェッリとマッカローニはそこからさらに発展して、練り生地をのばしたところに新しい技術を加えたものである。具体的にいえば、フェレットと呼ばれる細い金属製の棒に生地を巻き付けるように板の上で転がして作る、中心に穴のあいた長い紐状のパスタである。
13世紀と14世紀のパスタの躍進ぶりは目覚ましい。ボッカッチョは「デカメロン」のなかで、ベンゴーディという国の美味について語るとき、すりおろしたチーズの山の上に去勢鶏からとったスープの鍋があり、そこで煮込んだマッケローニmaccheroniはチーズの山を転がり落ちてくる、と描写した。パスタは美味なるものというイメージが定着していたのである。やがて、この美味なるものはさまざまな形と名前を持つようになる。ミヌテッリ、Minutelli、ラヴィオリravioli、フォルメンティーニformentini、パンカルデッレpancardelle、ニョッキgnocchi、タリアテッレtagliatelle、フェットゥチーネfettucine、タリオリーニtagliolini、ラヴァニェッテlavagnetteなど、イタリア各地で混乱の様相を呈するようになった。そのうち、マッカローニ/マッケローニという名は、穴のあいた細長いパスタを指すほか、パスタ一般を総称するものとしても広まっていった。たとえば、
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1537年に隠者グリエルモ・クッフィテッラを列福する際の文書のなかで、ラザーニャとは「詰め物をしたマッカローニ」と記されている。
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16世紀末の教皇ピオ5世の料理人であったバルトロメオ・スカッピが記した料理書では、「ニョッキ、つまりマッカローニをつくり」と書いている。
シチリアでは、マッカローニはマッカルーナmaccarrunaと呼ばれ、貴族階級とユダヤ人が常食していたが、一般庶民にとってはハレの日のごちそうであった。当時の文書によれば、パレルモではマッカルーナの値段はパンの3倍と高価で、不当な高騰を防ぐために価格の上限を統制していたという。